前書き
毎年この時期は憂鬱になる。なぜなら昨年の評価が返ってくるからだ。 幸いなことに今いる会社は私のことをそれなりに評価してくれる(別にめっちゃ高いわけではないが、ゴミとは言われない)。しかし自己評価はそれほど高くない。 その結果無駄に恐縮な気持ちになる。今回はなぜ自己評価との乖離が発生しているのかを考え、その差を(人生初)埋める方法を考えたい。
方針
今回は次のように考えてみる
- 自己評価が低くなる理由
- 人からの良い評価が存在する理由
- 差を埋めるには
自己評価が低くなる理由
自己評価の仕方
私は自己評価に(自分だけで評価するという意味での)絶対評価を採用している。 指定された物事に対して、自分の定めたやりたいことを決める。それに対してどこまで迫ることができたのか、で評価を決める。 しかし運用に対して、この方針だと問題があることもわかっている。 私が定める目標は基本的に自分の全力ちょっと手前ぐらいであり、多分ここまでできるんじゃないかなーぐらいのラインが多い。 そして残念なことに、私は自分の能力を正確に測ることができない。 「余裕っしょ」というものは問題がない。しかし「これ、できるのかな」というものは安定しない。そして仕事は大抵後者。 その結果やりたいことの結果はまちまちとなり、評価点は上げづらい。
なぜその自己評価をするのか
まずわかっていることとして人に負けるのが嫌というものがある。 相対評価にすると世界一にならない限り負ける。そんな大きなことを言わなくとも、所属する小さな世界であっても全てにおいて一番になることはできない。 そのため相対評価にすると必ずどこかで挫折することになる。 しかし絶対評価にしても挫折はする、なぜこれを許容するのか。 内面の深堀は足りないが、思いついた理由は次の2点だった。
- 敗北を人に知られることがない
- 知られなければこっそり勝ちにいけばよいだけ
- 勝利に転じた際に人に知られることがない
- 勝ったという名乗りを挙げると相手が負けたことになる。嫌な気持にさせたくない
どちらも秘匿することに価値を感じているように見える。というか意外と他者を意識しているな。他人なんてどうでもよい理由が出てくる気がしていた
人からの良い評価が存在する理由
知らん。 というのはさておき、人から受ける良い評価は恐らく相対評価なのだと思う。というか仕組み的に相対評価にせざるを得ない。 給与の総量は業績によって定められる以上それをみんなでどうやって分けるのか、それは相対評価以外ありえない。
じゃあ人より良い作業ができたのか、というとそれもわからない。私は基本自分に精一杯で人の作業をあまり見ていない。 というか管理しろと言われても精神崩壊を恐れ大抵めんどくさがって見ていない。
この方向から何か知見は得られない、ということがよくわかる。
差を埋めるには
これまでのことをまとめると次のようになる
- 自己評価は能力すれすれを狙うが、自分が思っているほど自分はできない
- 他者評価はわからない、測る力がない
これを見ると、どちらも力を測る能力が欠如しているのが原因に思う。 そのため自他の能力を測る練習を積むことで次なる状態に進むことができるのかな。
うん、ヤダ。アゲイン
再考
自己評価のほうで意外な点として想定よりも他者を意識している、という結果が出ている 深層心理ではそうなのかもしれないが、たまたま出てきたものだっただけでほかにまだ重要視しているポイントがあるのかもしれない。 ここを考え直してみる。なぜ絶対評価をしたいのか、するのか。
- 指標が具体的になる
- 実施内容を細かく分け何がどこまでできたのかを考える必要が出てくる?これは優柔不断マンには(指標を作る苦しみはさておき)助かる
- と思ったが相対的に評価しようと思っても同じ。これは違う
- そもそも比べる相手がいない場合が多い
- やりたいことが偏屈/ぼっちだから比べることができない場合が意外とあったように思う。その場合結果を評価するのは絶対指標しかない
- 自己の戒めになりやすい?
- 他者との比較に価値を見出していない?
- 人と比較することは新たな観点を知ることができるので意味がないとまでは思っていないはずだが……
ダメだ、わからん。再考の結果井の中の蛙恐れぐらいしか有益なことは出てこなかった。 諦めて能力を測る練習でもしてみるか。まずは測り方からだな……