目的
どうでも良いが、最近の若者は謝罪しないという話を聞いた。別に最近の若者に限らないと思うがふと思い立ったため、謝罪について思ったことを言語化してみる。
まずの結論
人に対して謝罪したくないというのはあると思う。ただ簡単に謝罪をするのも間違っているように思う。私はひとまず謝るが、本気で謝る際は言葉を変える派
過程の言語化
今回題材とする謝罪は、謝るか否かという部分に着目をする。謝罪方式(例えば焼き土下座)などは問わない。またはっきりと白黒が付かない場合を想定している。片方が明らかに悪い場合は謝るしかないよね。
そのため、次の2つに分類する
- ひとまず謝る系
- 絶対謝らない系
前者のひとまず謝る、だが例えば先頭にすみませんという形でひとまず謝る、というスタイル。この場合、体裁として相手を立てるつもりはあるが意見を曲げるつもりのない宣言であると取れる。悪いと思っているのならそもそもいうなよという話になる。
後者の一切謝らないという場合、これはただ波風が立つだけとなる。社会性を放棄している。自分は曲げる気もないし、それに対して追従するなら認めるがしない場合にケアをする気はない、という宣言。
自分1人の世界(で謝る必要があるかはさておき)ならこれで問題はない。ただ人がいる場合には誰かが折れる必要があるが、それを常に相手に行わせるのは違うのではないか。
と考えると後者は望ましくないように思う。しかし「誰かが折れる必要がある」の折れる人はどのように決めればよいのだろうか。
おそらく後者に分類される人間は本当に人生で一度も謝ったことがない、ということではなく自分の考える「折れる」ポイントが人よりも厳しい位置にあるのだろう。そのためほかの人が折れるべきと考えている。しかしこんなセンシティブな認識のすり合わせなどするはずもないため、だれがどこで折れればよいのかのバランスがとれない。
ここまでを考え直してみると今回2つに分類したが、これでは分類できていないことになる。謝るポイントがどこで折れるのかの違いでしかない部分に言及しており、謝罪スタイルの入りからずれてしまっている。
考え直し
謝罪には2つの要素がある
- 謝罪スタイル
- 謝るポイント
謝罪スタイルは会話の流れをどのように構築するか(発話タイミング)の違い。謝るポイントは議論の結論をどのように作成するか(意見をどうするか)の違い。組み合わせを考えると次のようになる
- ひとまず謝る、意見も曲げる
- ひとまず謝る、意見は曲げない
- はっきりと言葉には出さないが、意見は曲げる
- はっきりと言葉には出さないし、意見も曲げない
こうしてみると1~3なら許容か?2は意見が衝突しているときに結局ケンカにはなるだろう。ただ交渉の余地が残されているようにも見える(見えるだけなので一層腹立つかもしれないが)
話していくうちに意見が変わるかもしれないので、はっきりとすべてを拒絶するよりはあいまいな部分はあったほうが良いのかもしれない。
さて「まずの結論」を見返してみると「私はひとまず謝るが、本気で謝る際は言葉を変える派」とある。これは謝罪の本気度合いについて考えていた。つまりまだ要素が足りない。
これは「謝る」という行為は相手に許しを請うものだが、請う対象について2つに分類しているような気がするが、考えはまとまらない。ひとまず分ける
- 犯した罪に対して許しを請う
- これから犯す罪に対して許しを請う
やってしまったことは、共通認識として悪い側があるのだろう。これからやってしまうことは、気分を害するかどうかわからないが、害した場合はごめんね。という前置き。これを明確に分けたいよね、ということが本気度合いなのだろう。これは謝罪スタイルや謝罪ポイントとは観点がことなる、それらを適用すべきものが起こったというのが、請う対象1であり、適用すべきものを起こさないようにするのが請う対象2。
結論
形式上の謝罪についても意味を感じていた気がしたが、考えることに疲れたのでなかったこととし、それっぽい結論を出して終わる。いつかパート2が出るかもしれない。
謝罪には次の要素を考えている
- 謝罪スタイル:謝罪意思をいつ明確にするか
- 謝罪ポイント:謝罪した結果どうするのか
- 謝罪対象:起こったことか、これから起こるかもしれないことか
最近の若者は謝罪をしないというのは、議論過程で「1」の謝罪スタイルなのではないだろうか(知らない)。白黒を付けて進めたあとにどこかで謝罪をいれて変更する、というのは謝罪するよりも自尊心を削ってしまうのではないか。ならあいまいな状態を続けて相手とのすり合わせを済ませればよい。
という妄想をしたのだと思う。そもそも「謝罪」がどんな謝罪かもわからんし、「最近の若者」ってどれくらいの年代を指しているのかもわからん、おじいちゃん相手ならおっさんだって若者よ。