モチベーション
無知の知、とはソクラテスが煽りに用いていたとはよく言われる。しかしこのところ以外と煽りでもないということを実感してしまい困惑している。
なぜ困惑しているのかをまとめ、これから困惑しなくて済む方法がないかを検討したい。
……が力尽きた。愚痴を世界に公開しておこう
なぜ困惑するのか
自分について
私は自他共に認めるコミュ障側の人間である。そのため伝えたいことは大抵の場合伝わらなく、何度かの問答が発生する。
この時問答が発生してしまった理由としては、次のようなものが多い、ように振り返っている
- 自らが発した言葉の前提が不足しており、背景がわからない
- 複数の意図を読み解くことができてしまう、程度には言葉が曖昧
- 結論が脳内にあるが、それが出てきていない
そのため(被害を受けた人には申し訳ないが)次は伝わらなかった前提を追加するなどして都度対応をしている。
これくらい読み解いてくれると嬉しい気持ちもあるのだが、結局問題なのは伝える側、より知っている(伝えたい, 真実を知っている, 高みにいる)側が降りていく必要がある、という思想なので腹が立ってもそれなりに我慢できているはず、できていなかったらどうしよう🌀
また人の言っていることが理解できなかった場合も同様となる。こちらはさすがに理解不能すぎる場合には(尊大な言い方だが)低みに降りることができないため諦めることも多い。しかし、自分が理解できないのは大抵の場合聞き飛ばしていたり前提知識が足りない、常識不足などをもとに補足を聞きに行くことが多い、はずだ。ちょっと自信がない
他人について・なぜ困惑するのか
振り返ってみると私を批判していた人も似たようなことをする。前提の共有がおろそかであったり、言葉選びが不適切で(多分という意図は伝わるが)わからなかったり、かつてわからないと言われた理由をそのまま適用できるわかりづらさを秘めた伝え方は幾度となくされている。
そしてこれは人によるが、外から見る限りは自分の発言を振り返ることなく人を非難するだけであり、これくらい当然だから理解できない方がくそ、ぐらいのことを言われる、こともある。面と向かってかはさておき。この人に対して厳しい姿勢に対して、自分に対して厳しい姿勢が取れない、ということに困惑している。
困惑ポイントへの深堀
自他に対しての振る舞いが異なること自体は問題には思わない。程度の差こそあれ、だいたい同じに扱える人間なぞいないだろう。そしてむしゃくしゃして強い言葉が出てしまうなんてのは、生きていればそう。
でも自分もできないのに、人を批判する際に常に強い言葉をかけるのは違うと思った。批判をするなというとこれは無理な話だが、批判する際に見え透いた体裁ではなく本気で言葉・態度は選ぶべきだと思う。なおこれは観測が不足しているだけ、という可能性が残されている。私が見ているときにそういう場合が多いとか、忙しい時だから出てしまうとか。理由はいくらでも考えられる。とはいえそういうときに本性が出る、と言ってしまえばそうなのでひとまず自分の観測した範囲までで考えるしかない。
そして(当社観測比で)明らかに弱い言葉で同じ意味と思っていることを言うときわめて傷ついた、みたいな顔をされたことがたまにある。この振る舞いだけはいまだに理解が及ばない。超棚上げして傷ついてしまったのか、瞬時に自己批判にまで到達してしまったからなのか、初めて受けた時は仮説を立てる行為すら難しかった。なおこの状況が生まれた後に攻勢を変えた人はいなかった(当社観測比)。
どうすれば困惑しないのか
まず困惑ポイントをまとめる
- なにに対して困惑しているのか
- 自他に対しての姿勢が違う点に対して困惑している
- なぜ困惑するのか
- 「つい」出てしまうならまだわかるが、「つい」の頻度ではないから、私が問題だと思っている振る舞いを変える気がない/問題視していない、そのことについて困惑している
- 自分にやってほしくないことを人にやっているから
これより困惑しない方針として3点考えてみる
1. 相手を変える
やられたくないことを人にやったらいけないんだぞー。小学生かなー……ケンカにしかならない。これはありえないにしても、如何にすれば自覚もなく望んでもいない人を変えることができるのだろうか。その引き出しは私にはない、無念。
試しに自覚させてみる、というのはアリだろうがそれは第三者の介入によって初めて効果が出ると思う。どうしても当事者同士ではうまくいかないと思う。そしてそんな人脈もない。
2. 困惑している旨を伝える
ぽぽおーーー
3. 自分を変える
そういう人もいる。がまんしよ
結局離れるか我慢するかの2択でしかないのか。言語化して検討した結果、漠然と理解していた結論しか出ないつらみ